「異物をどう取り込むか」

片山幹生


 板橋区、東武東上線大山駅から歩いて10分ほどのところにある空手とキックボクシング道場の地下にある小劇場、サブテレニアンで昨年に引き続き板橋ビューネという演劇祭が開催された。にぎやかで庶民的な商店街を抜けたがらんとした住宅地の中、小劇場的な文化の香りは極めて希薄な地域にサブテレニアンはある。こんな場所で演劇祭、しかも古典作品のみが上演されると言う試みの意外性が面白い。ごくありきたりの日常的風景のただ中にある建物の地下室で、古典演劇という日常とはかけ離れた世界が人知れず展開されるなんて、まるであたかも秘密結社の集会のようだ。若い演劇人が古典作品という異物とどのように格闘し、自分たちの表現としてどう取り込んでいくのかに興味を持った。今回、私は二日間(10/8と10/10)で四作品を見た。上演団体はいずれも初見で、私の知らない団体だった。


◆劇団MIR「ヴォイツェック」

 最初に見たのは韓国の劇団MIRによるビュヒナー作の「ヴォイツェック」である。上演時間は50分。演者は7名でみな黒い衣装を着ている。韓国語による字幕なしの公演だったのだが、作品と真っ直ぐ向き合った優れた舞台だった。今回の演劇祭で私が見た四本の作品のなかでは、私はこの『ヴォイツェック』が一番楽しんで見ることができた。

 展開にスピード感があった。5分ほどの長さの各場面が次々とリズム良くつながっていく。観客席は演技場を両脇から挟むかたちで向き合って設置されていた。舞台美術は数脚の木製の椅子、そして結界のように四方に吊されたロープだけのごくシンプルなものだ。ロープには、仮装パーティなどで使われる顔上半分を覆うプラスチック製の白い仮面がくくりつけられている。主人公のヴォイツェックとその妻マリー以外の人物は、全員がこの仮面をつけている。仮面の俳優は、仮面を付け替えることで複数の役を演じていた。

 仮面の使用によって作品の寓意性が強調されていた。素顔で演じられるヴォイツェクとマリーは社会的弱者であり、仮面を被った多数派の暴力に苛まれ続けるが、それに対抗する術を知らない。仮面を被った人物は個別性をはぎ取られ、匿名の存在となる。彼らはストレス解消の生贄として差し出された弱くて無力な存在に、一斉に飛びかかり、むさぼり尽くしていく。この上演で表象されていたのは、社会のあらゆる場に蔓延するいじめの寓話としてのヴォイツェックである。印象的で洗練された演出処理がいくつかあった。例えばヴォイツェクによるマリー殺害の場面は、観客が見えないカーテンの奥で行われる。マリーの死は、黒いカーテンの裾から飛び出したむき出しの手だけによって示される。またマリーは黒い衣装に赤い布をスカートとして腰に巻き付けていたが、この赤い布のスカートだけで、彼女の官能性は見事に象徴されていた。


 俳優の動きにも細かい配慮が感じられた。俳優たちは狭い空間を常にせかせかと神経質に移動し続ける。身体全体を使って行われる滑らかな表現は、写実的、説明的なものでなく、優れて象徴的なものだ。その常に変化していくその動きは、自然にそれぞれの場のメッセージと結びついている。各場のつなぎには暗転が多用されるが、余韻を残さずに、次々と無機的に淡々と切り替わっていく。このドライな切替えが作品内容に合っていた。提示される各場面は、スリットから映し出される映像のように、事件の展開を鮮やかに提示していた。スピード感のある展開、豊かで繊細な身体表現、明快な解釈の提示によって、韓国語の台詞が理解できないにもかかわらず50分間、退屈することなく、作品を楽しむことができた。奇をてらわずに戯曲に正面から向き合い、その伝え方に誠実な工夫がある正統的な『ヴォイツェック』の舞台だった。


◆NUDO「縛られたプローメテウス」

 NUDOの「縛られたプローメテウス」の上演前に、演出家の横田宇雄から「上演のストライキ運動について」の声明が読み上げられる。実は本公演よりこのストライキ宣言のほうが私には興味深かった。当日パンフレット折り込みには、昨年公演をやったあと「2013年9月から一年間、個人的・私的な理由でストライキを経た上で再び[今回の]上演を行う運び」となったとある。そして今年も「上演のストライキ活動を継続」するとの声明が読み上げられた。「縛られたプローメテウス」が上演される2014年10月7-8日の全三回の上演以降」、再び一年間、横田氏は上演活動を行わないとのこと。この個人ストライキの動機は「上演が社会的な理由によって歪められることに対し」抗議するためだと言う。まずストライキの動機が曖昧すぎて意味不明だし、単に横田氏が一年に一度、彼の演公演活動の核と思われる板橋ビューネ以外で公演活動を行わないことを、果たして「ストライキ」と呼ぶことができるのかはなはだ疑問だ。本気なのか狂気じみた冗談なのかよくわからないこの「ストライキ」宣言は、その奇矯さゆえに妙に印象に残った。


 「縛られたプロメーテウス」の舞台美術は、一台の小さなシングル・ベッドだけである。そこに男が座っている。この男(本山大)がプロメーテウスらしい。照明は多彩で工夫が凝らされていた。ほぼ暗闇の状態からはじまる。床に転がったライト、天井からぶら下がったライト、後側から照らすライト、何種類かの照明が効果的に組み合わされていた。照明は点滅したり、眩しく光ったり、壁面にスリットを映し出したりなど、様々な効果によって緊張感のある抽象度の高い空間を創り出している。持続的に変化していくノイズの使い方も悪くない。ただし台詞の発声は最悪だ。プロメーテウスはとつとつと、奇妙な区切りで、ゆっくりとした速度で、抑揚のない声で話す。正直、とても集中してその言葉を追うことはできなかった。他の登場人物の発声もプローメテウスほど途切れ途切れではなかったが、抑揚のない単調なものだった。この発声には、まともに観客に言葉を届けようという意志が感じられない。表現スタイルは、紋切り型の前衛風表現であるように私には感じられた。「前衛的」身振りでしっかりと武装してはいるけれども、表現や解釈面には目新しさを感じない。前衛と呼ぶには、演出も俳優も全然冒険をしているようには思えない。安全圏に身を置いたまま、自己陶酔しているように感じられた。前衛風の様式を見せたいのであれば、圧倒的な表現技術で観客を圧倒しなくては、見る方は耐えられない。一時間の上演時間がとても長く感じられた。 当日パンフに記載された演出家による文章は難解で私にはよく理解できない。統合失調症について強い思い入れがあることはわかったが、この文章自体が統合失調症的である。NUDOのウェブページにある作品紹介の文章は、当日パンフの文章よりわかりやすかった(http://yokotatakao.blogspot.fr/2011/07/blog-post.html)。統合失調症というテーマを頭において、そのありようを舞台表現にしようとしていると思って作品を見れば、もっと興味深く見ることができたかもしれない(以上、10/8に観劇)。


◆ヘアピン倶楽部「マクベス」

 美術は中央におかれた直径2メートルほどの円形の壇。その円壇の中には書道手本のような字体でいくつもの言葉が書かれている。王国、勇気、子孫、愛人、地位、侵略、権力、富、人望、信頼、裏切り、女、睡眠、運など。これらは「マクベス」の物語のキーワードとなるようなことばだ。

 男性の俳優6人によるコンパクトな「マクベス」で、三人の魔女、マクベス夫人など女性の登場人物もすべてむさくるしい男性によって演じられる。またマクベスとマクベス夫人以外は、一人の俳優が複数の役を担当する。台詞の語り口は軽やかでスピーディでユーモラスなもので、あえて安っぽく、子供の学芸会的なのりの安っぽい「マクベス」を提示している。服装はダンボールに銀紙を貼ったものだし、俳優たちの佇まいもシェイクスピアの悲劇の雰囲気とはほど遠い緩い感じだ。シェイクスピア悲劇を演じるにはあまりにふさわしくない若い日本人俳優が、その貧弱な身体性を前面に出して、みっともない姿でシェイクスピアと向き合う。この逆説的な趣向は面白い。しかしちゃちな「マクベス」の提示による異化効果から先に進まない。「マクベス」の破壊によって、さらに新しい解釈が提示されるわけではなく、ひたすら同じ調子で矮小化された「マクベス」が続いていく。登場人物のあいだにあるドラマとしてのヒエラルキーが無化され、薄っぺらなやりとりで「マクベス」の物語がせかせかと進行していく。このうんざりするような単調さ、中途半端な趣向自体が、この演出の狙いなのだろうが、この一つのアイディアだけで一時間弱の作品を持たせるのはしんどい。最初は面白いと思ったが、間もなく飽きてしまい、残りの上演時間の大半はひたすら劇の終わりを待つという観劇になってしまった。


◆テアトロ・マアルイ in 風蝕異人街「トロイアの女」

 5人の俳優が和装で演じるエウリピデスの「トロイアの女」。家族を失い、ホームレスとなった老女が、トロイアの女たちの夢を見るという外枠が設定されていた。ギリシア軍は仮面を被った男二人が演じる。四股を踏むように、床をどしどしと踏みならしながら移動する。台詞回しも堂々たる朗唱で、独特のリズムと抑揚がある。明瞭な様式感がある表現スタイルはアングラ系、特に鈴木忠志のSCOTを連想させるところがある。老女となったヘカベを演じた女優(三木美智代)のケレン味とまがまがしさを湛えた演技の重厚さが印象的だった。歌舞伎の早替わりのように女優が衣装を次々と脱ぐことで、変化していく様が面白い。表現面で様々な趣向が用いられた中味の詰まった舞台だったが、全体の展開がねっとりと重く、一本調子に感じた。最後に美空ひばりの歌を入れるなどという俗っぽいことをするのであれば、もっと徹底的に大衆演劇的なサービスを取り入れて観客を引き込んで欲しいように思った。

 この公演を見ていたときは、劇場の空調システムが壊れていたのか、会場内がとても暑かった。蒸し暑くて暗い地下室で、このような重苦しい芝居に付き合うのは苦行だった。後半は見ているこちらが息切れしてしまった感あり。空調がまともに機能していれば、もっとじっくりとこの上演に付き合い、楽しんで見ることができたように思う(以上2本、10/9に観劇)。


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